大船渡高校時代から時速163キロの球を投げることで有名となったロッテの佐々木朗希(ろうき)選手。
佐々木朗希選手は2011年の東北大震災で父親の功太(こうた)さんをなくしています。
この記事では佐々木朗希さんの父親・功太さんや家族についてまとめました。
佐々木朗希(ろうき)選手は岩手出身で大震災で被災・・
佐々木朗希選手は2001年11月3日生まれの18歳(2020年3月現在)で、
岩手県陸前高田市の出身です。
佐々木朗希選手が高田小学3年生の時に東日本大震災が起こり、
避難生活を経て大船渡市に引っ越し、猪川小学校に転校しています。
その後大船渡中から「同じメンバーで甲子園を目指す」ために、
強豪校のスカウトを蹴ってそのまま地元の大船渡高校へ進学。
こちらの地図を見ると大船渡市は陸前高田市の北部で、少し内陸よりにあることがわかります。
残念ながら念願の甲子園出場はかないませんでしたが、ドラフトでロッテに入団しプロ選手人生をスタートさせています。
大の負けず嫌いの佐々木朗希の父親は震災で無念の死・・・
佐々木朗希選手は「大の負けず嫌い」を自ら公表しています。
佐々木は涼しい顔に似合わず「大の負けず嫌い」を公言している。
一時期、携帯の待ち受け画面を横浜(神奈川)の最速152キロ左腕・及川(およかわ)雅貴(2年)に設定していた。
理由は「及川がU15日本代表で、中学から有名だったから」。
会ったこともない相手にメラメラとライバル心を燃やせるのが、佐々木のすごさだ。
及川は今夏(2018年)の甲子園出場を決めている。
(引用:日刊スポーツ)
この負けず嫌いは、兄・琉希(りゅうき)さんによって育てられたそうです。
というのも、佐々木朗希選手は東日本大震災で父・功太さんを始め
祖父・功さん、祖母・勝子さんを亡くしてしまいました。。
その時父親・功太さんは37歳という若さだったそうです。
それからは兄の琉希さんが弟・朗希選手の父親代わりとなり、厳しく接するようになりました。
実は兄の琉希さんも弟の朗希さんと同じ大船渡高校の野球部で、4番を背負う程の選手でした。
OBである兄が上下関係やしつけとても厳しかったことで弟・朗希選手の「負けず嫌い」に火をつけたようですね。
(母・陽子さん)「琉希がすごく弟の朗希に厳しく接していました。
その反動で、朗希は常に兄を超えようとしていました。
野球面でも生活面でも、朗希が兄から褒められたことを見たことがないですね。
見ててかわいそうなぐらい朗希は、兄から言われてました。
引用:日刊スポーツ
佐々木朗希が父親・功太について語った内容まとめ
悲しいことではあったんですけれど、すごく今に生きているなと。
当たり前が当たり前じゃないとか、今あるものがいつまでもあるわけじゃないとか、そういうのを思い知らされました。
まず一言目に佐々木朗希選手はこう答えました。
「誰とでもすごく仲良しでみんなに愛されていた」
そんな佐々木朗希選手の父親・功太さんは、明るく太陽のような存在な若きリーダーだったといいます。
佐々木功太さん。もともと、陸前高田では知られた人だった。
元気な3児の優しい父として。
人生の節目に寄り添う仕事をする、人情あふれる働き者として。
夏祭りでは町内会を率先して盛り上げる、太陽のような存在として。
163キロ右腕のことを「あの功太の、3人息子の真ん中の子」と認知する人も多い。(引用:Yahooニュース)
陸前高田の戸羽太市長とさえも、佐々木朗希選手の父親・功太さんとは付き合いが長く、
・有言実行の人
・一緒にやろうという仲間作りが上手な人
・気さくで
・行動力があって
・先輩も後輩も、みんなが付いていって
・・と誉め言葉が尽きないほどの絶賛ぶりです。
本当にみんなに愛されて必要とされる人材を亡くしたのだ、ということがわかりますね・・。
佐々木朗希選手は、未だに震災の爪痕が残る地元、陸前高田に対し、
「地元に恩返しできるように精いっぱいプレーしていきたい」
とコメントを寄せました。
佐々木朗希選手は、故郷への想いや家族を守るという想いがあるからこそ、メジャーへの挑戦は考えていなかったともいわれています。
責任感や故郷や家族えの愛情あふれる佐々木朗希選手は、間違いなく父親・功太さんの血を受け継いでいるようです。
まとめ
大谷翔平選手と同じ岩手県出身の佐々木朗希(ろうき)選手は、
・東日本大震災で父・功太さんを亡くしてしまった
・大の負けず嫌いの性格は兄・琉希さんに厳しく育てられたから
・父親・功太さんは誰からも愛される太陽のような人だった
・「故郷のためにプロ選手として精いっぱいプレイする」
ということでした。
日本野球界の未来を背負う佐々木朗希選手。
怪我には気をつけながら、プロの世界でも活躍して頂きたいですね!