1970年代に一世を風靡した「ザ・ドリフターズ」のメンバー志村けんさんといかりや長介さん。
最盛期には視聴率50%近くを記録した超人気番組「8時だョ!全員集合!」に長年出演していましたね。
悲しいことに志村けんさんは2020年3月30日に70歳で、いかりや長介さんは2004年3月20日に72歳で亡くなられています。
実はこの2人の関係が、晩年には仲が悪くなっていたという噂がありますが、本当なのでしょうか?
この記事では志村けんさんといかりや長介さんの関係は仲良しだったのか?確執があったのか?検証してみました。
志村けんといかりや長介の関係は仲良しだった?不仲説の理由はお金!
いかりや長介さんとの確執が噂されていた志村けんさん。
実は不仲説は事実で、しかもその理由はお金だったそうです。
いかりや長介さんは1970年代、日本中のお茶の間で愛されたバンド&コントグループの「ザ・ドリフターズ」のリーダー。
志村けんさんはいかりや長介さんに弟子入りして芸能界に入った、子弟の関係でした。
志村けんさんはいかりや長介さんについて
「(いかりや長介さんは)全部教えてもらった師匠」
と語っています。
志村けんがいかりや長介との不仲説について説明
初めの頃は仲が良かった志村けんといかりや長介さん。
ですが次第に報酬の配分をめぐり、だんだんと確執が生まれていったんだそうです。
以前志村けんさんがテレビ番組に出演した際に、いかりや長介さんとの不仲説について説明する場面がありました。
「仲悪かったわけじゃないでしょ?」と聞かれると、
「最初のうちは仲良かったですよ」
「渡辺プロにいる頃は渡辺プロから(報酬を)もらって
いかりやさんが(ボクらに)分ける。
ドリフターズ事務所を作ったらそこに入るようになって、
その辺で(報酬の)配分が変わってきた」
とそこから確執が生まれたと志村けんさんが説明。「ドリフターズの営業で1回1,500万円とかいきましたよ」と明かし、
「それ聞いたら俺たち何ももらってないじゃんって
なっちゃったんだよね」と苦笑。(引用:マイナビニュース)
志村けんさんは当時、売れに売れて24歳ながら約50万円(当時の価値で)を超える月収をもらっていたそうですよ!
ただそれでも売上に対しての自分たちへの分け前が低いことを知り、報酬の取り分を決めていたいかりや長介さんに対しての不満が募って、不仲に発展してしまったようです・・。
それでも志村けんさんはいかりや長介さんが亡くなった時は辛かったと話していました。
やはりどんなに不仲になろうとも、芸能界に入るきっかけをくれた師匠に対して、感謝の念は消えなかったようです。
それでも亡くなった時は辛かったと話し
「そういう時って悪いことが消えちゃう。
それまでは、自分ばっか持っていきやがってと思っているけど、
いざそうなると変わる」と語った。(引用:マイナビニュース)
▼いかりや長介さんの追悼番組
2020年3月30日に、新型コロナウィルスの感染が原因で志村けんさんが死去されました・・。
こんな形で最後を迎えるとは思ってもいなかったでしょうね・・。
ご冥福をお祈り申し上げます。
【画像】ザ・ドリフターズ時代の若い頃
続いて、ザ・ドリフターズの若い頃の画像をまとめました。
「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」時代
この後、「いかりや長一とドリフターズ」を経て、一世を風靡するした「ザ・ドリフターズ」というコントのグループへと変貌を遂げました。
「ザ・ドリフターズ」時代
ザ・ビートルズの日本公演で前座演奏をしたザ・ドリフターズ(3分20秒あたりより)
ザ・ドリフターズの勢いは止まることなく、テレビで見ない日はないという程の人気を博しましたね。
▲元々ミュージシャンだったザ・ドリフターズ
▲この頃(1984年)から志村けんさんがザ・ドリフターズに正式加入しています。
ザ・ドリフターズ再結成「40年だよ!ドリフの大爆笑2003」動画
2003年12月23日には『40年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル』を放送。
この時5人そろって出演していますが、いかりや長介さんは実は2003年5月に原発不明頸部リンパ節癌を発症し闘病生活を乗り越えた後だったんですね。
その時の映像がこちら▼です。
いかりや長介さんは当時すでに70歳を超えていましたが、まだまだ元気そうですよね。
しかし残念ながらこれが最後のテレビ出演となったのでした・・。
いかりや長介さんは2004年3月20日に癌の転移によって72歳で亡くなってしまいました。
いかりや長介さんの通夜にはファンも合わせた3500人以上が参加。
日本中の多くの方から愛されていた人柄がうかがえますね。
【画像】いかりや長介のデビュー当時の若い頃
いかりや長介さんの本名は碇矢 長一(いかりや・ちょういち)さんと言います。
1931年11月1日生まれ、出身は東京です。
いかりや長介さんは実はは20代〜30代の頃元々はミュージシャンとして活動されていました
1960年(昭和35年)頃のウエスタンバンド「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」です。
中央のテンガロンハットがリーダーのジミー時田。
右端が寺内タケシ、その横がジャイアント吉田、左端がいかりや長介です。 pic.twitter.com/Pc718gcLDX— 戦前~戦後のレトロ写真 (@oldpicture1900) March 21, 2018
▲「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」
一番左端がいかりや長介さんです。
この活動の中でギャグやギャグやコントのセンスを磨いたあと、いかりや長介さんは「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に参加することになったわけです。
志村けんの若い頃のイケメン画像!デビュー当時から現在まで時系列まとめ
実は志村けんさん、デビュー当時の若い頃とってもイケメンでした。
志村けんさんのデビュー当時の若い頃から現在までの変化については、こちら▼の記事でご紹介しています。
2020年3月30日には悲しいながら、志村けんさんも不慮の感染症で命を引き取りました・・。
今頃天国で子弟として再会を果たし、コントで大爆笑を誘っているかもしれませんね。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
▼志村けんさんの追悼番組